エドガー・ケイシーつながりで ある記事を見つけたので一部をシェアします。 ☆「なぜ病弱な聖者と、健康な悪人がいるのか」 ラリー・ドッシー医学博士 ********************************************************* 話を聞いた人々が思わず困惑する歴史上の有名人の病気に 今からかれこれ2500年前の覚醒者、仏陀の食中毒があげられるだろう。 彼はいたんだ肉を食べて食中毒になり、死んだ。 腐りかかった肉は彼の最後の食事となった。 この話を知った当初、仏陀ともあろうお方の最後にしては あまり高尚とは言えない・・・と私は思った。 私は腐った肉よりもっと、威厳にみちた死因を期待していた。 偉大な霊的精神的指導者の多くは、痛みに苦しんだ挙句にグロテスクとも言えるような死を迎えているのだ。 (中略) イエス・キリストが、盲目に生まれついた男に出会ったとき、弟子は尋ねた。 「師よ、この男が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか? この男ですか?それとも彼の両親ですか?」 この疑問は、今日のニューエイジブームの流れの中で登場するさまざまな疑問と 表現は異なるが、その本質は同じだ。 誰が間違っているのか? なぜ私はこの病気にかかったのか? 私は現在や過去のどんな過ちのために、今こうして病気で苦しんでいるのか? 病気という罰を受けるべきは誰か? イエスの答えは、私たちの心に健全な自信を取り戻してくれる。 それは、意識と癒しについて語っているニューエイジの本の全てに掲げられるべきだろう。 「この男が罪を犯したのでも、両親が犯したのでもない。神のみ技が、彼を通して顕れるためである。」(ヨハネ9:1~3) イエスのこのメッセージを、もっと大勢の人々に認識してもらうにはどうしたらよいだろう。 この盲目の男は、精神的な欠陥がない状態でも、その肉体が深刻な病に蝕まれるというその例だ。 犯した罪の為に誰かが罰を受けるのでもない。 病気になることを選んでいるわけでもない。 「・・・神のみ技が、彼を通して顕れるためである。」と答えたイエスは 病気というものには神ならぬ人の身には理解しがたい、高い次元での目的があることを暗示していると言えよう。 一人一人の病気の意味というものも、広大無辺な宇宙と同じように計り知れないものなのだ。 それゆえそれは多分、神だけが知っているようなことであって 死すべき運命にある人間に対しては被い隠されていてはっきりしないことなのだ。 ~中略~ 病弱な聖者や賢者との対極の存在がある。 やたら元気なならず者、とでもいうのだろうか。 霊的な事柄とは一切無関係で、風邪一つひかないような人々だ。 あなたの周りにもこういった人間が一人くらい居るだろう。 あるいはうわさに聞いたことがあるだろう。 彼らは不健康の限りを尽くして気の向くままに煙草を吸い、酒を飲み、挙句に百まで生きるのだ。 それも病気一つしないでだ。 病弱な聖者と元気なならず者をみればわかるだろう。 肉体的な健康と、霊的精神的健康な完成度のあいだには、直線的で一定な比例関係などないのだ。 人間として驚異的に素晴らしい状態に到達していながら非常に病気がち、ということは起こりうるのだ。 ********************************************************* 全文をお読みになりたい方は下記へアクセスしてみてください。 無料ダウンロードができます。 🍀日本エドガーケイシーセンター https://edgarcayce.jp/?freedownload
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田村まゆみ 〜ニュートラルに生きる〜
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